すれ違うパンケーキ
次の休暇に彼女が我が家へ遊びに来ることになった。軍艦暮らしが板についた男の、ただ寝て食って、少ない私物を置くだけの部屋に、である。
しかしバジルールのご令嬢のもてなし方など皆目見当もつかない。失態を犯すくらいならと、恥を忍んで何がしたいか尋ねてみれば、彼女は何やら言いづらそうに口をもごもごさせている。単刀直入を地で行くこの人にしては珍しい。
「パンケーキ」
「は?」
「だ、だから、パンケーキ、が、食べたくて」
「パンケーキ」
アラスカまでの道行きならいざ知らず、今はアークエンジェルの食堂でもパンケーキくらいなら食べられる。カフェやホテルで供されるような立派なものではないけれど、食べて思わず笑みがこぼれてしまう程度には普通に美味しいパンケーキが。軍艦としてどうなんだという気持ちはないでもないが、銭湯なぞ造り付けている時点で、たかがパンケーキの一枚二枚、些事も些事。こちとらお堅い軍人気質は北緯六十度のイカれた電子レンジに全力投球で放り込んでここまで来た身。何を今更。いやしかし、改めて思えば軍艦でパンケーキが食えるような立場にあるのか、自分たちは。孤立し追われて見捨てられ。そんな時代を思えば随分な贅沢と幸福を享受している今このとき。大切にしたい。目の前のこの人と、ともに。
何の話だったか。
「前回の休暇で、自作したのだが」
自作。
「貴方が、パンケーキを」
「そうだ。無性に食べたくなって、だな」
まあ、あるよなそういうこと。もっともこちらは、パンケーキなどとかわいいもんでは決してなくて、安売りでもないのに1キロ買った鶏モモ肉を、酒と醤油と生姜とバカみたいな量のおろしにんにくで漬け込んで、白い粉つけて無心で揚げてはアチアチハフハフ口に放り込むとか、そういうのだけれど。酒はビールを使うのがノイマン流。
「しかし、その、お言葉ですが、バジルール少佐はパンケーキを作られたご経験が……?」
ブリッジにほど近い通路の端。会話内容はオフもオフだが、彼女は軍人の顔を完全に脱いではいない。ならば今はまだ、ナタルと呼ぶのは差し控えようというもの。「今はまだ、」だなんて、当たり前のように未来を思うことの喜びを、密かに胸で噛み締めつつ。
「ない。いや、今は“ある”か。……あれをパンケーキと呼んでいいのであれば」
苦々しげに唇を噛むその表情は、具申した意見を艦長に却下されたときのそれである。いつだって彼女は本気なのだ。コリントス一つ撃つにせよ、適切な引き際を計るにせよ、必要な取捨選択の判断にせよ、パンケーキ一枚焼き上げるにせよ。
「良い小麦粉を使ったんだが」
料理初心者がパンケーキを小麦粉から作ろうとしたのか。いや、そうは言っても小麦粉から作るパンケーキの難易度なんてたかが知れている。だって材料混ぜて焼くだけじゃないか。しかしどうにも腑に落ちない。自分で自分が食べるパンケーキを作るという、ただそれだけのため。自らの力量を十二分に把握し勘案しているはずの彼女のこと、生地から自作などという明らかに面倒な方針などとらず、素直にミックス粉を買いそうなものだが。パッケージ裏に作り方も書いてあるし。
ミックス粉の味があまり好みではない、とかか?
「……わかりました。では次の休暇は、パンケーキを焼きましょうか」
「本当か?」
「嘘ついてどうしますか」
苦笑まじりの返事を受けて、僅かに細められた目元。はにかんだように、きゅ、と力の込められたプラムレッドの唇を見て、どうやら失態を犯すのは避けられそうだと、内心胸を撫で下ろした。
一通りの材料をきっちり量り、ボウルで一緒くたにざっくり混ぜる。混ぜすぎないのがふっくら焼き上げるコツらしい。時計を見つつ、四枚焼き上げたところで玄関チャイムが鳴った。そういえば、うちのチャイムはこんな音であったか。
玄関先で一呼吸も二呼吸もついてから、気合も十分に扉を開ければ、面食らったような顔のナタルがこちらを凝視している。しかしそれも一瞬のこと、次の瞬間には形の良い柳眉は顰められ、中途半端に上げられていた右手がぎこちなく下ろされた。
「インターホンくらい出ろ。不用心だぞ」
「生憎、この部屋のチャイムを鳴らす人のあてが少ないもので」
「トノムラがよく来ると言っていたが」
「あいつはチャイムなんて鳴らしませんよ」
ふぅん、と気の無い返事とともに、むっと上がる下唇。こんなところで呆れられているぞ、トノムラ三尉。
「ええと、まあ、上がってください。今ちょうど焼き上がったところです」
オーブ式に靴を脱いでこの部屋の敷居を跨ぐ彼女に感動すら覚えつつ、それは胸の深いところにしまいこんで、狭いテーブルに案内する。借りてきた猫のようにチョンと椅子に座ったナタルは、興味深げにチラチラと部屋の端々に視線を向けている。そんなに見るものはない部屋だが、それでも些か気恥ずかしい。
独り身だし、と思って二年前に買った小さなテーブルは、トノムラやチャンドラが座れば見た目にも窮屈で仕方がなかったが、そこに座るナタルはなかなかどうして収まりが良い。対面に自分が座れば結局手狭になるだろうが、その近い距離感もいっそ都合が良さそうである。
「お茶はどうします? 珈琲もありますが」
「いや、お茶くらい自分で――」
「お茶ですね。待っててください、今ポットに用意してきます」
腰を浮かせたナタルを手で制してキッチンへ引き返す。ポットに茶葉を二杯。壁の時計を見遣りつつ、電気ケトルに沸かした湯を注ぎ入れ、蓋をしてカップと共にテーブルに置く。再びキッチンで焼き上がったパンケーキを皿に盛り付けていると、背後からナタルの声がかかった。
「何か手伝うことは」
「大丈夫ですよ。ゆっくりしていてください」
「いやしかし、」
「もう盛り付けるだけですから。……よし、できた」
ナタルに三枚、自分は一枚。パンケーキの皿を手に振り返れば、所在無さそうな顔のナタルがティーポットと時計へ交互に視線を振り向けていた。どうやら蒸らし時間の管理を買って出たつもりのようだ。今日はお客様なのだから、のんびりくつろいでいればいいものを。何かせずにはいられない、その不器用さがかわいらしい。
「お待たせしました。上手く焼けたと思うのですが」
皿をナタルの目の前に置く。彼女はパンケーキを見て、刹那、ほんの刹那、微かに戸惑ったような間をもたせた。
しかし直ぐ気を取り直し、ほのかに微笑んでみせる。
「パンケーキ、だ」
「なぜだ!」
目の前に座るノイマンの嘆声を聞きながら、トノムラは手元の端末に視線を落とした。ノイマンの個人端末である。カメラロールの「記録」と題されたアルバムには美味しそうな料理の写真がびっしりと並び、その先頭に、一流ホテルのレストランもかくやというほど見事に焼き上げられたパンケーキの写真が収められていた。アパートのキッチンカウンターで撮ったのだろう、背景が波打つステンレスなのが勿体ない。
「いやでも凄いですねこれ。素人でもこんな分厚く焼けるもんなんですか」
「セルクルを使うんだよ」
「せるくる?」
項垂れたノイマンが力無く頭を持ち上げ、両手で輪っかを作ってみせた。
「こういう、丸いクッキー型の大きいやつみたいな。フライパンに置いてその中に生地を流せば広がっていかないから」
「へぇー。そんなことよく知ってますね」
「知るわけないだろ。パンケーキが食べたいと言われて色々調べたんだよ。カガリちゃんのとこのメイドにも聞いて……」
「はぁ。たかがパンケーキに」
「必死なんだよ悪かったな!」
自棄を起こしたようにそう吐き捨て、ノイマンはテーブルに突っ伏した。冷静沈着で通っているこの人にしては珍しい。
どうもノイマンは、自分から告白して交際にこぎつけた手前、少しでも飽きられたらそれでおしまいだと思っている節がある。付き合いの長いトノムラの目から見れば、彼らが今の関係に落ち着く以前から二人の距離感はかなり近かったし、それは決してノイマンだけが好意を持って接していたからという話でもない。当初自覚があったかは知らないが、ナタルも大概、ノイマンのことを並ならぬ気持ちで想っているのだ。そうでなければ、ここ数日ナタルらしくもない公私混同スレスレの冷たい視線を一人浴び続けているトノムラの胃痛はなんだという話になる。この分では、ナタルがやきもちを焼いていたことにも気付いていないのだろう。
バジルール少佐のことならノイマン大尉に聞け、がオーブ軍でもコンパスでも浸透しているほどにナタルの理解者として知られるノイマンだが、自分に向けられている感情に限って視界が曇りがちなところをみるに、余程コンプレックスが邪魔をしているらしい。そのお門違いなコンプレックスが。
「やっぱり勘違いなんじゃないですかぁ? あの少佐が、ノイマンさんの作ったパンケーキを気に入らなかったなんて」
「そんなはずはない」
「なんでそこは自信たっぷりなんですか。だって食べてくれたんでしょう?」
「自分のために出されたものなら、よっぽどのことでもなければ拒否しないだろ、ナタルは」
でなけりゃこんなことする必要もないだろうが。そう言いつつ、ノイマンはトノムラの持つ端末を取り返し、カメラロールを無関心にスクロールさせ始めた。
鬼のバジルール少佐だが、軍務が絡まなければ割合気遣いな人だということはトノムラも理解している。しかしナタルにも食の好みがないわけではない。嘘のつけない性格の彼女だから、口に合わなければ、返ってくるのはぎこちない微笑みと、「ど、独創的な味だな」という精一杯の感想である。少なくとも、先日ミリアリアが「作りすぎちゃって」と配って回ったマフィンに対してはそんな感じであった。
「で、食べて何て言ってたんです」
「『すごく美味しい』」
“すごく”がついたのなら、よっぽど美味しかったに違いない。もちろんそれはノイマンとて理解しているだろう。なるほど、だから困っているのだ。単に口に合わなかったというのなら、過去彼女に振る舞った料理の反応から導き出した分析をもとに改良点を考えればよいだけのこと。しかし実際は「美味しかった」のである。
それなら何故、ナタルの反応が芳しくなかったという話になるのか。
「良い小麦粉を使ったんだが」
「そういう問題ですかね」
「ようお前ら、辛気臭い顔して何喋ってんの」
ノイマンの隣の席にトレイを置きながら、ムウが会話に横入りしてきた。トレイに載った魯肉飯のスパイシーな甘辛い香りが、テーブルに滞留している淀んだ空気を押し流す。本日のランチは魯肉飯と月見うどんの二択であった。思い悩むノイマンとストレス過多のトノムラは迷いなくうどんを選び、先程までこのテーブルを包み込んでいたのは鰹出汁の滋味あふれる香りだったわけだが、優しさは苦悩に寄り添いこそすれ、力強く払拭してくれるわけではない。なるほど今のノイマンに必要なのは、魯肉飯のパンチの利いた強引さかもしれない。トノムラは飽き始めていた。
「ノイマン大尉がバジルール少佐にパンケーキを作ってあげたって話です」
「なにそれ」
ノイマンが経緯をかいつまんで説明すると、ムウは咀嚼していた魯肉飯を飲み込んでから、「ウーン」と不可解そうに唸った。
「バジルール少佐は食べて『美味しい』って言ったんだろ?」
「はい」
「でもお前は納得いかないわけだ」
「まあ、そういうことになりますかね」
ノイマンが居心地悪そうに返答する。ムウのまとめ方は簡潔だが、正しい。正しいがゆえに、「お前はバジルール少佐を信用してないのか」と鋭く指摘しているようでもあった。
「あれ、でもその、お前が言うところの『ナタルの微妙な反応』てのは、食べる前ってことだよな。盛り付けが奇抜だったとか?」
「見ます?」
ノイマンが個人端末をムウに寄越す。画面をひと目見たムウは「うわ、」と漏らした。その反応を受けてノイマンがやや不安そうな顔を見せるが、別にムウはあのパンケーキの見栄えを「おかしい」と思ったわけではなかろう。
「これホントにお前が作ったの? どっかのカフェでテイクアウトしたやつを撮ったとかじゃなく?」
ほらね。
「今この場で見栄を張る必要性がどこにあります」
「だわね。しっかしお前、料理が趣味とは意外だったなぁ。写真まで残しちゃって」
ムウが端末の画面を指ですいすいスクロールしている。対面に座るトノムラには画面が見えないが、恐らく「記録」アルバムの写真一覧を眺めているのだろう。
「趣味とかじゃないですよそれ。いや、大尉にとってはある意味趣味なのかもしれませんけど」
「えっそうなの? じゃ、なにこれ」
「大尉の血と汗と涙と努力の結晶です」
「はぁ?」
トノムラは身を乗り出して、ムウが見ている画面の中から一枚の写真をタップした。うどんでくちくなった腹さえ切なくさせる、見事な出来栄えのプリン・ア・ラ・モードである。艷やかなカラメルをまとったプリンの脇で、ホイップクリームのクッションに慎ましく載せられた飾り用の赤いチェリーが目を引く。
「ほらこれ」
写真の情報欄を表示させると、プリンに使った材料と簡単にまとめられたレシピ、そして食べさせた“誰か”の反応が詳細にメモ書きされていた。ちなみにこのプリンの評価は「美味しい。やはりプリンは固めにかぎるな」だったようだ。
共に画面を見ていたムウが呆れたように隣のノイマンを眺めた。
「お前……健気だねぇ……」
「男の身で言われても嬉しくないですね」
「喜ばそうなんて思って言ったわけじゃねえよ。えっ、てことはこの写真ぜんぶ、バジルール少佐に作った食いもんってこと?」
「そうですが」
料理の大半はタッパーに入れられた状態で撮影されている。どういうことかと言えば、ノイマンは休暇のたびに自宅でせっせと料理を作り、勤務中のナタルに差し入れているのだ。
この辺りの経緯は、実はトノムラはナタルから聞いたのである。彼女は「ありがたい」と前置きしつつ、自らがノイマンの負担になっているのではと遠慮がちな反応であった。ちなみにナタルがノイマンに差し入れを乞うたことなど一度もない。彼女を労い喜ばせようと、ノイマンが勝手にやっていることである。
ノイマンの思惑とナタルの戸惑い。この不器用なすれ違いを知るのは両者に挟まれたトノムラだけだった。二人ともなんで俺に相談するかなあ。
「ま、この見た目なら、見栄えに引いたってこともないか」
「良い小麦粉を使ったんですがね」
「はぁ? 小麦粉?」
ムウが端末を返しながら素っ頓狂な声をあげた。
「ナタルが言ってたんですよ。元は彼女が自作に失敗したってのが発端ですから。だからミックス粉を使うのは避けたんですが」
先程小麦粉がどうとか言っていたのはそういうわけであったか。トノムラは得心した。しかしナタルが微妙な反応を見せたのはパンケーキを実食する前なのである。この際、材料云々は関係ないだろう。普段のノイマンなら直ぐ気付きそうなものだが、あれこれ考えすぎたのか、すっかり深みにハマってしまっている。
しかしどうも、ナタルが生地からパンケーキを自作したというのが、トノムラの腑に落ちない。パンケーキが食べたいだけならミックス粉を買えば済む話であるし、そもそもアークエンジェルやオーブ軍基地の食堂で頼むか、カフェにでも行けばいい。理由もなくわざわざ面倒なことをするような上司ではなかったはずだが。
ムウも同じような感想を抱いたらしい。ノイマンの言を受けて何やら考え込むようなポーズをとっていたが、暫くして、急に顔を上げた。
「あのさ、もしかしてだけど――」
「リベンジさせてください」
「なんの話だ」
通路ですれ違った彼女を呼び止め、一言。しかしナタルは不審そうに眉根を顰めた。
「すみません、間違えました。次の休暇、俺の家に来ませんか」
「またか?」
見切り発車で言ってしまったが、しかしよく考えてみれば、男が女を自宅に招くなど、下心と捉えられても無理はない。慌てて弁明しようと口を開くも、先に発言したのはナタルの方であった。
「あ、いや、お前が良いと言うのなら……その、負担になりはしないだろうかと……」
「負担だなんて、そんな。俺は貴方と居られれば、それで」
それを聞いたナタルの頬がほんのり赤く染まる。狼狽えて瞬きするたび、長いまつ毛が柔らかくひらめき、透き通るような紫色の瞳が揺れる。かわいい。
「わかった。じゃあ、次の休暇に」
「ええ、次の休暇に」
生地の材料を混ぜ合わせたボウルに、フライパンの底で香ばしい香りを溜め込んでいる焦がしバターを注ぎ入れる。一度フライパンをキッチンペーパーで拭って、新しくバターを熱し、そこへレードル一杯分の生地を注ぐ。直ぐに表面が乾いてきて、破かぬようにそっとヘラで裏返せば、僅かに焼き色のついた滑らかな生地が、バターとミルクの豊かな香りを立ち昇らせる。
一枚焼いては皿に移し、次の一枚のための生地をフライパンに注ぎ入れる。最後におまけのような小さな一枚を焼き終えて、空のボウルを濯いで水切りにひっくり返すと、耳に馴染まぬ玄関チャイムが部屋に響いた。
インターホンのボタンに指を載せて、しかし結局押すことはせず、そのまま玄関扉を開ける。やはり面食らったような顔のナタルが、先日と同じく顔を顰めた。
「だから不用心だと」
「貴方とわかっていて、わざわざ確認する必要もないでしょう?」
「それは……いや、しかし」
「ほら、入ってください。もう用意はできていますから」
「ようい?」
戸惑うナタルに先行してキッチンへ戻り、焼いた生地をケーキ皿に盛り付ける。背後で椅子を引く音が聞こえて、彼女がおとなしくテーブルについたのがわかった。
「はい、お待たせしました」
皿をナタルの目の前に置いて、そっと顔を覗き込む。
視線を落としたナタルは、切れ長の目を丸く見開いて、あ、と零した。
「パンケーキ……!」
ビンゴ。
くるくると丸めた薄い生地に、たっぷり粉糖を降り掛けて。くし切りのレモンを添えれば、見た目にも爽やかな“パンケーキ”のできあがり。
逸る気持ちを必死に抑えて、しかし抑えきれない喜びをきらきらと零しながらパンケーキを見つめるナタルに苦笑しつつ、ノイマンは対面の席に腰を下ろした。
「しかし意外でした。貴方の仰るパンケーキが、まさかイギリス式だったとは」
はっとしたように顔を上げたナタルが、少々申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「すまない、私も言葉足らずだった。母方の曽祖母がイギリス育ちだったらしくて、昔からパンケーキといえばこれが定番だったんだ」
どうぞと手で示してやれば、ナタルは細い指でレモンをきゅっと絞って生地に振りかけた。フォークで小さく端を切り取って口に運び、幸せ一杯といった顔で咀嚼して、こくんと飲み込む。
「美味しい……!」
“すごく”はついていないけれど、薔薇色の緩んだ頬で言われれば、それは最上級の「美味しい」に違いなかった。
レシピは、元アークエンジェルクルーで今はオーブに亡命している下士官の一人が覚えていたものだ。あの日、ムウの閃きを受けたトノムラが、たしかイギリス出身の子がいたはずだと言い、元クルー全員の連絡先を把握するマリューに頼んで連絡を取り付けてもらったのである。ネットで調べればレシピの一つや二つ、簡単に出てきたのだろうが、故郷を同じくする者の知恵を借りたい気分だったのだ。
食い違いのからくりが分かれば、ナタルの不可解な行動にも説明がついた。ミックス粉を買わずに小麦粉を用意したのは言わずもがな。作るのに失敗したのは、生地の薄さ故の焼き加減の難しさと、扱いの繊細さに起因するものであろう。とはいえ、お菓子の中では簡単に作れる方ではないか。それは黙して言わないけれど。
三枚をペロリと平らげたナタルは、満足そうに深くため息を吐いた。あまりに幸せそうに食べるものだから、レモンを掛けたきりでつい手を止めて見つめていたが、ノイマンもようやくフォークを手に取った。
「その、礼と言うには足りないだろうが、お茶を淹れさせてもらえないだろうか」
「あ、すみません。忘れてました」
口元をハンカチで拭ったナタルがさっと立ち上がり、キッチンカウンターの端に置いてある電気ケトルを手に取った。中には今朝飲んだ珈琲の余りの水が入っていたはずだが、彼女はそれをシンクに捨て、新しく水を汲み入れた。沸かす間にポットと紅茶缶を棚から出し、真剣な眼差しで缶の側面を読み取りつつ、引き出しからスプーンを探り出してみせる。
その手際の良さに感心しながら眺めていると、こちらの視線に気付いたナタルが慌てたように口を開いた。
「す、すまない、勝手にあれこれ手を付けたりして」
「構いませんよ。でも、よく場所がわかりましたね」
ポットも紅茶も、普段のノイマンは必要としないもので、わかりにくいところにしまってあった。両方とも、先日ナタルが遊びに来ることになって初めて買い揃えたものだった。
「前回来たときに見ていたからな」
気付かなかった。
沸いた熱湯を空のポットに注ぎ入れ、それを一度捨ててから、スプーン三杯茶葉を入れると、再びお湯を注いで蓋をする。ポットとカップを手にテーブルまで戻ってきたナタルは、少々得意顔だ。
「ポットは一度温めた方が良い。そのまま湯を入れて蒸らせば、湯温が下がって紅茶の出が悪くなる。オーブは火山島だからな、水がだいぶ硬い。少々出し過ぎるくらいでちょうどいい」
「はあ……」
五分ぴったり置いてから、ナタルは紅茶を二つのカップに均等に注ぎ入れた。渡されたカップに口を付けると、自分で淹れたものとは比べ物にならない、華やかな香りが鼻腔に広がる。
「驚いた。こんなに違うとは」
「だろう?」
まるで子どもみたいに得意げに言うと、ナタルは綺麗な所作でカップを傾けた。
やわらかな空模様の昼下がり。敵味方に分かれさえした元連合兵が二人きり、ただ静かに紅茶を飲むこの時間が、どれだけ得難いものであるか。そういう理解はあれど、気持ちはずっと穏やかだった。
「美味しい紅茶に免じて、一つわがままを聞いてくれるか」
「え? ええ、その、俺にできる範囲であれば」
ナタルはカップを静かに置いて、少し恥ずかしそうに呟いた。
「次に来るときは、チャイムを鳴らさないでも、いいだろうか」